「実業団とは違ったキツさがある……」、旭化成退社し“経営者+アスリート”になった八木勇樹
高校時代から陸上競技のエリート街道をひた走ってきた八木勇樹選手。兵庫・西脇工業高校時代にはインターハイ5000mで2年連続日本人トップ&2年時から卒業までトラックレース日本人無敗。早稲田大学では学生駅伝3冠や関東インカレ1500m優勝など、輝かしい実績を残し続けてきました。
そんな八木選手は2016年6月、所属先の旭化成を退社し、『株式会社OFFICE YAGI』を設立。プロランナーとして東京五輪を目指すことを表明しました。今年の5月10日には自身がプロデュースしたトレーニング施設『SPORTS SCIENCE LAB』がオープン。ますます勢いに乗るエリートランナーに、独立までの経緯、今後の目標などを伺いました。
八木勇樹 やぎ・ゆうき
1989年10月17日生まれ。マラソンランナー。西脇工業高校(兵庫)→早稲田大学→旭化成→株式会社OFFICE YAGI
陸上競技のトップ選手として、高校3年時の国体少年A5000mでは外国人留学生を抑え優勝。高校2年時から高校3年時にかけてトラックレースでは無敗。早稲田大学在学時の2010年度、史上3校目となる大学駅伝3冠達成時の主将。旭化成ではトラック・駅伝・ロードレースで活躍。2016年7月にプロランナーに転向し、『YAGI RUNNING TEAM』を立ち上げ自身の競技と共に市民ランナーの指導も行う。『SPORTS SCIENCE LAB』の開発責任者。
<YAGI PROJECT> http://www.yagi-project.com/
<SPORTS SCIENCE LAB> https://sslab.tokyo/
エリート選手がプロランナーの道を選んだ理由とは
「アスリートは自分のスポーツ選手としての商品価値を高めていくと同時に、引退後のセカンドキャリアも選手自身で考えていかないといけないんです!」
高校時代、大学時代と陸上競技や駅伝で華々しい実績を積み重ねてきた八木勇樹さん。彼は自らの強い信念のもと、昨年6月に陸上の名門チーム『旭化成』を退社。プロランナー活動を本格化するため、自らの名を看板とした『株式会社OFFICE YAGI』を設立しました。
エリート街道をひた走ってきたトップランナーが、なぜ実業団という“安定”を捨ててまでプロとして活動するのか。まずは起業のきっかけを八木選手にお話いただきました。
「旭化成で競技をしている時に、実業団というスタイルに疑問を持ち始めたんです。本来『監督』『コーチ』と『選手』というコーチングを受ける立場関係であるはずなのに、どうしても『上司』と『部下』という関係性の方が大きくなってしまうんです。そうなると上司の言う事は絶対ですから、従わなくてはなりません。でも、やらなければいけないこと、考えなければいけないこと、選択肢を見つけることって、いついかなる時も自分でやるべきことなんです。それが置かれている状況で制約されるというのは意味がないですよね。
しかも実業団選手って、やり切って引退する人はほとんどいないと思うんですよ。コーチは高水準で選手を見ているので、選手がスランプに陥っても『自分で上がってこい』というスタンスなんです。本来コーチングというのは、選手の競技力をどう伸ばせるかを考え行うこと。そこにはコーチと選手の信頼関係が必要です。そんな疑問が日に日に募っていき、『だったら自分でやってやろう』と起業する決意をしました」
その後旭化成を退社した八木さんは、自らの会社を設立。業務内容はスポーツ選手(現在は自分自身)のマネジメント及びプロモーション業務、ランニングチームの運営、ランニングに関する業務全般を行っています。6月で会社設立から1年が経ちますが、ここまでの道のりでプロランナーとしての苦悩と喜びを感じたそうです。
「この1年間は大変なことも多くて、当初のイメージ通りには全然進んでいないですね(笑)。練習時間や練習環境を確保しなければいけませんし、その間に商談の時間もある。自分自身で時間をコントロールしないといけないという実業団とは違ったキツさがありました。
いろいろと話を進めていく中で、それがカタチになった時ってすごく充実感があるんです。が、カタチにならないものもたくさんありました。はじめの頃は『時間を無駄にしたな』と、すごくストレスを感じることがあったんです。でも今はそういうことが無くなって、“経営者”としての視点と“アスリート”としての視点、2つを併行して持っている状態。この1年でいろんなことを経験して、少し柔軟に物事を捉えられるようになりましたね」
世代のトップを走り続けた学生時代
八木選手といえば、高校時代にトラックレースで2年間日本人に無敗(2年時~卒業)、3年時の国体では強力なケニア人留学生を抑えて優勝など、その“無双ぶり”がファンの間で語り継がれています。当時はどのような考えで競技をしていたのでしょうか。
「当時は『当日の俺が何とかするやろ』という感じでしたね(笑)。あんまり負けるという気はしなかったというか、そこまで日本人トップを取るとか取らないとかは気にしてなかったんです。よく『日本人トップ』って言葉をメディアは使いますけど、前で留学生がゴールしている時点で負けているんですよ。単純に誰よりも前で走りたかったですし、練習でも常に自分の中で敵を作り出して、誰よりも負けない練習をしていました」
そして大学では名門・早稲田大学に進学。入学後はチームの自由な雰囲気に苦戦し、満足のいく結果を残すことができませんでした。
「当時の早稲田大には竹澤さん(健介/北京五輪男子5000m・10000m代表)がいましたからね。自由で何も縛られていないというか、そこのバランスが難しかったです。高校時代は『こうしなければいけない』という善悪の判断があったのですが、大学ではそれが全くない。自分の中でもう1度ルールや価値観を作り直す作業が必要でした。そこでバランスが崩れてしまって、大学時代は満足のいく走りができた記憶がないですね」
そんな中で、3年時には学生駅伝3冠。4年時には競走部全体の主将として関東インカレ、日本インカレ総合優勝、自身も関東インカレ1500mで優勝するなど活躍を続けました。八木選手は大学時代の思い出に残るエピソードとして、主将として総合優勝を果たした4年目のインカレを挙げています。
「早稲田大は競走部全体で100人くらいいたんですけど、バラバラだったんですよね。応援も面倒くさがったり、ブロック間で仲も良くなかったし……。そういうのを自分たちの代で変えて、お互いを高め合える存在にならないといけないと思ったんです。同期でミーティングを重ね、組織としてどうやっていくべきかということを考え、実践していきました。
僕は主将として大したことはしていないんですけど、短距離の選手と食事によく行くようになりましたね。そういうところで他ブロックの選手とコミュニケーションを取って、もっといろんな種目を知らなければいけないなと思ったんです。例えばこの選手が予選を通るにはこのくらいの記録を出さないといけないとか、インカレでポイントを取るにはこのタイムで行かなければいけないとか、それがわかると応援もしやすいですよね。それを徹底したからか、僕らが4年生の時に関東インカレと日本インカレで両方とも総合優勝を果たすことができたんです。そこは主将としてやり遂げた気分がありましたね!」
しかし最後の駅伝シーズンでは、自身はケガで不出場。チームも連覇を逃し、悔しい思いも経験してきました。
「4年目はケガで駅伝を走れていないので、そこに対しての無力感は半端じゃなかったです。最後の箱根駅伝なんて、ほとんど記憶がないんですよ。チームが何位だったかも覚えていない。見ていたはずなのに、脳が拒否しているんでしょうね(笑)。当時はそれくらいショックな出来事でした」
その後は旭化成へ入社し、約4年間在籍。そして前述の通りプロランナーへの転身を決意することになります。次回はそんな八木選手のマラソンへの想い、独自のシューズ論などを展開していただきます。
八木選手が高校時代に履いていたシューズとは
現在プロランナーとして活躍中の八木選手ですが、高校時代はあるシューズしか履いていなかったそうです。そのシューズが『asics(アシックス)』のTARTHER JAPAN<ターサージャパン>。これは当時の西脇工業高校(兵庫)陸上部の伝統で統一されていたそうで、個性を出せるのはラインの色だけだったとか……。
ターサージャパンはasicsを代表する人気モデルで、フルマラソンだとサブ4クラスのランナーに重宝されているレーシングシューズ。シンプルなデザインが特徴的で、昔からのファンが多いシューズです。
そんなターサージャパンを生み出したasicsのランニングシューズがこちらです。
松永貴允
1991年生まれ。陸上競技を中心に、主にスポーツの取材・執筆を行う若手フリーライター。小学生の頃からのスポーツ競技経験(野球、陸上競技、ラクロス)を生かし、紙媒体、WEB媒体問わず執筆中。スニーカーは中学時代からVANSひと筋。