生誕30周年記念。『東京スニーカー史』の著者、小澤匡行さんの「極私的エアマックス史観」
『NIKE(ナイキ)』のエアマックス<AIR MAX>生誕30周年を記念する日AIR MAX DAY。そのスペシャルな日に向けて、前回90年代スニーカーブームについて語っていただいた、小澤匡行さんにエアマックスのこれまでの歴史やムーブメントを、個人的見解を含め、紐解いてもらった。
エアマックスの個人的な興味は、ナイキエアという独自のテクノロジーをアップデートしてきた軸によって過去のモデルを体系化できる点に尽きます。クルマのモデルチェンジやコンピュータのOSアップデートに似ているんですよね。
そしてまたエアマックスは現在も進化中ですから、歴代モデルのどこから個々の人生とリンクしているかで世代別の楽しみ方が違ってくるところもおもしろい。
小澤匡行 おざわ・まさゆき
1978年生まれ、千葉県出身。大学在学中に1年間のアメリカ留学を経て2001年より雑誌『Boon』にてライター業をスタート。現在は編集・ライターとして雑誌やカタログなどで活動中。2016年に『東京スニーカー史』(立東舎)を上梓。Instagram:@moremix
30年前の日本では、エアマックスもナイキも今ほど知られてはいなかった。
最初のエアマックス、 エアマックス 1<AIR MAX 1>が誕生したのは1987年です。僕は当時8歳だったので、もちろんその存在を知りませんでした。ただ、思い返すとテレビのチャンネルがリモコン式になったりして、ごく普通の家庭でもテクノロジーの進化が顕著になり始めた頃なんですね。
そんな時代に登場したエアマックス 1が画期的だったのは、機能の視覚化でした。文字通りエアを利用したクッショニングシステムのナイキエアが登場したのは1979年。その機能形態を小窓で見せたのがエアマックス 1です。
運動自体の楽しみ方も変わり始めた時代でした。エアロビやフィットネスの流行を受け、トレーニングブームが起こり、ナイキとしても時代をリードするモデルを作りたかったのだと思います。
その時点でのポイントは、ナイキは生粋のスポーツブランドだったということ。そして日本では、エアマックスもナイキ自体も、今ほど知られてはいませんでした。
世界陸上の選手が履くエアマックスがカッコよかった!
中学生となり陸上競技とバスケットボールを始めた僕にとってのナイキは、完全にスポーツ専用ギアでした。そこで紹介したいのが、1991年のエア 180<AIR 180>です。発表時点ではエアマックスシリーズ外でしたが、OG(オリジナルカラー)復刻に伴ってエアマックス 180 OG<AIR MAX 180 OG>に名称変更されました。こういうパターンはよくあります。
注目はインソール。NIKE INTERNATIONALのマークがプリントされました。これは、それまでアメリカの国内選手を中心にしたサポート体制を世界各国の一流アスリートまで広げるという、1989年に発表されたナイキのグローバル戦略の旗頭です。
1991年は東京で世界陸上が行われた年です。カール・ルイスの活躍をテレビにかじりついて見ていました。選手村リポートなんかもあって、そこに映る選手がいろいろなエアマックスを履いていたのがすごく印象的でした。
部活で擦り込まれたテクノロジーの進化
中学、高校時代で思い出深いのが1993年のエアマックス 93<AIR MAX 93>と1994年のエアマックス 2(スクエア) <AIR MAX 2>です。エアマックス 93は、エア部分が270度見渡せる進化を遂げただけではなく、足首に伸びるシュータンとアッパーを一体化させたハラチフィットを投入した初のエアマックスです。エアマックス 2はそのさらに進化版ですが、ハラチフィットに新機軸のマルチチャンバーエアを投入するという驚きのモデルでした。
マルチチャンバーエアとは、要するに気圧が異なる2つの空気室を設けた機構です。その空気室が四室なので、エアマックス 2の2はスクエアと読みます。今でも空でマルチチャンバーエアの図面を描けます。『陸上競技マガジン』に掲載されたナイキの広告や特集記事を読み込みましたから。この時代、ナイキはスポーツ専門誌に情報供給を特化させていました。
エアマックス 2は、僕が初めて買ったエアマックスです。陸上部でトレーニング用として履き分けていました。ちなみに中学時代のバッシュはエア フライト ハラチ<AIR FLIGHT HUARACHE>。ハラチフィットは本当に履き心地が良くて、それは完全な刷り込みになりました。
複合的な要素が絡んで起きた前例なきエアマックス 95騒動
そしてご存知のエアマックス 95<AIR MAX 95>が登場します。あの騒動は、人によって受け止め方がまちまちです。その辺を調査・検証したくて2016年に『東京スニーカー史』を出版したところもあります。まぁ、僕にとっては部室で盗まれた初のスニーカーになりましたが……。
最初、スポーツ系の人々はほとんど履いていませんでした。というのは、シリアスランナーがシューズを買いに行くスポーツ用品店が「こんなの売れない」と入荷を控えたからです。それまでのエアマックスとは全く異なる奇抜なデザインだし、スウッシュもないからランナーには受け入られないんじゃないかと。けれどファッション系の人たちの目には留まった。それをストリート系マガジンの『Boon』が追いかけた。さらにはNBAでマイケル・ジョーダンが大活躍し、ナイキ自体の注目度がかつてないほど高まっていた。莫大な人気を誇る多くの著名人達が履いていたりと、いくつもの要素が複合的に絡んで異様な状況が起きました。
やがてエアマックス 95の国内在庫が底を突きます。すると、アメリカにはまだあるぞとバイヤーさんが並行輸入をしたり、個人が買い付けに行ったり。フリマで2万5000円くらいで出たものを業者が買って4万円の値を付け、それがまた転売されていつしか数十万円になり。まさしくエアマックスバブルでした。前例のない事態だから、なかなか収拾がつかなかったんです。
90年代半ばのナイキって何を考えていたんだろう?
この異常な時期にユニークだったのは、1996年に発売されたエア トータル マックス<AIR TOTAL MAX>です。黒のレザーって、トレーニング向けとしてはあり得ない仕様ですから、何を考えていたんだろうと思うんです。企画段階では日本での特別なブームなど予想できなかったはずだから、あるいはナイキはエアマックス 95あたりからファッションへの意識を強める方針だったのかもしれません。いずれにしてもエアマックス 95は、ナイキはもちろんスポーツブランドの在り様を大きく変えたモデルだと思います。
目指していたのは360度のエア化
そうした日本の事情とは関係なく、エアマックスはさらに進化を続けます。ナイキが目指していたのは、エアソールを360度ビジブル化することでした。2006年に発売されたエアマックス 360<AIR MAX 360>でついに悲願を達成しますが、その前段階では実験的なモデルがいくつか登場しました。
1998年のエアマックス プラス<AIR MAX PLUS>は、部分的に半球状サスペンションを内蔵したチューンドエアというソールを採用。2003年のエアマックス 2003<AIR MAX 2003>は、ソールの大半を占めたエアシステムをケージで覆う形を取っていました。
エアマックス 2003が出た頃、僕はすでに『Boon』で働いていて、このシューズのスッキリしたデザインをすごく気に入っていました。でも、周囲にはウケませんでしたね。
エアマックスのカルチャーを面白がる時代になった
最後にもう1足。東京・上野を拠点にするミタスニカーズというショップが2013年にナイキとコラボしたエア マックス 95 プロトタイプ<AIR MAX 95 PROTOTYPE>は、初期のデザインスケッチで描かれたエアマックス 95のシュータン部分がブラックだったデザインを忠実に再現した復刻モデルです。これはエアの進化とは別次元の話です。カルチャーとして何を面白がるかというのは、現在のエアマックスの特徴と言えます。
30周年記念で3月に発売されたエアマックス 1も、これまで何度か復刻されたものの中から、もっとも優れていると評価された2000年代前半のシェイプを採用しました。そうした小ネタ拾いも、ある意味で体系化できるエアマックスだからこその楽しみです。
履いてこそ魅力がわかるスニーカー、エアマックス
僕は、エア マックス30年の歴史のほとんどをリアルタイムで過ごしてきました。その入口は、陸上競技やバスケットボールというスポーツをDOするためでした。なので、テクノロジーの進化というものを実感できたのは貴重な経験と言えます。でも、若い人にすれば昔の話をされても困るでしょうね。現在はあらゆるデフォルトが良いから、履き心地の進化の過程を体験すること自体が昔よりも難しくなっているかもしれません。
若い人たちには、入口は何であれ、いろんなエア マックスを実際に履いて、それぞれの良さを体感してほしいです。このスニーカーは、履いてこそその魅力が分かります。エアマックス 95でジョグするとか、ジムで走ってみるとか、ファッションとDOをミックスさせるのもアリだと思いますよ。