「生き物と生きる時間そのものがアート」粘菌で彩るヴァンズ「スリッポン」【バイオアーティスト・齋藤帆奈さん】
英語で交差点を意味する「CROSSROAD」。
様々な分野で一直線に邁進するプレイヤーの「ターニングポイント」を振り返る本企画。そのポイントの以前・以後では何が変わったか。そして、変わらずに足元を支えていた“相棒”とも言えるシューズについて語る。
山での粘菌との暮らしが心地良いリズムに
今回登場するのはバイオアーティストの齋藤帆奈さん。美術と生物学を横断しながら、「粘菌(ねんきん)」と呼ばれる生物との共生や、自然との対話を通じた作品づくりを行っている。制作拠点を東京から山間部へと移し、自然と呼吸するようにして日々を紡ぐアーティストだ。

アートと科学の融合を探究する齋藤さんにとって、山間の一軒家に拠点を移したことが、ひとつの大きな転機となった。決して利便性の高い場所ではないが、そこには暮らしと創作がゆるやかに重なり合うリズムがある。
「もともと登山をしていたので、水が出て屋根があれば十分だと思っていました。家は空き家バンクで見つけたんですが、ほとんど廃墟のような状態で。それでも“なんとかなる”って思えたんです。むしろ自由に手を入れられることに魅力を感じました」
齋藤さんが育てる「粘菌」は、原生生物の一種であり、緩やかに姿を変えながら移動し、生きている様が作品の素材にもなる。彼女は粘菌の性質と、自身の生活のリズムがぴったり重なったと語る。

「粘菌って、思ったよりお世話が簡単なんですよ。でも、ワークショップで配っても、すぐに絶やしてしまう人も多くて。だから、私の性質とこの生き物が相性良かったんだと思います。無理せず育てられること、それが創作の起点になっています」
彼女が生物と関わる作品を「バイオアート」と呼ぶことにも、ある種の意思が込められている。まだ確立されたジャンルではないが、だからこそ語れる自由さがある。
「“バイオアート”という言葉を最初に知ったのは大学の授業でした。生物学も美術も両方好きだったけれどどちらかを選ばざるを得ないのかと思っていたので、世界が開けた気がしたんです。言葉としても短くて使いやすいし、“それって何?”と聞かれることで対話も生まれる。だから私は、あえてそう呼んでいます」
制作活動においてぶつかる壁もある。特に「どこまで多くの人に伝えるか」は、彼女にとって今も答えの出ない問いである。
「自然との関係性って、本来は誰にとっても大事なテーマだと思うんです。でも、届けたい人の幅を広げようとすればするほど、伝え方が難しくなる。何を削ぎ落として何を残すか、いつも迷いながら作っています」

現在、齋藤さんは大学の助教として教壇に立ちながら、研究と制作を並行して進めている。科学的な知見と感性を横断するその姿勢は、アートの枠を超え、まだ名付けられていない領域に光を当てている。
「粘菌の研究って、科学の中でもすごくニッチな分野なんです。でも、そういう見過ごされがちな分野にこそ、アートの力でスポットを当てられると思っていて。アートって、ただ作品をつくるだけじゃなくて、誰かが振り向く“きっかけ”にもなれるんです」
齋藤さんの言葉には、アートを特別なものとして閉じ込めず、生活の中に自然に溶け込ませたいという誠実なまなざしがある。「作品をつくること」と「暮らすこと」を分けない姿勢は、都市の喧騒や成果主義とは対照的なものを孕んでいる。
「完成品としての作品というより、生き物と一緒に生きる時間そのものを作品と連続的なものと考えているかもしれません。すごく小さな変化でも、ちゃんと感じられるようでありたいと思っています」
スリッポンを彩る。アーティストと自然の共作

バイオアーティストとして、微生物や生命現象をテーマに作品を発表してきた齋藤さん。近年参加した「アート・オブ・シューズ」というプロジェクトでは、自身が選んだ『ヴァンズ(VANS)』のスリッポン<SLIP ON>をキャンバスに、独自のアプローチで作品を仕上げた。
「スリッポンって、本当に毎日の靴だったんです。学生時代にはよく履いていたし、ぱっと履ける気軽さもあって。だからこそ、今回アート作品として選ぶなら、これしかないって思いました」
白いスリッポンは齋藤さんにとって、ただの靴ではなかった。日常の中で積み重ねてきた感覚や記憶が染み込んだ生活のメディウムだったのだ。その上に、新たに命を吹き込むかのように使われたのが「粘菌」である。
今回は、前回はまだ実現していなかった、粘菌の軌跡で靴に色と模様をつけるという試みを行った。「アート・オブシューズ」では、色素を食べた粘菌がスリッポンを移動した後は白い地が残り、粘菌が生きている間だけ模様が変化するという表現を行ったが、あれから数年、軌跡を保存することができる技術を編み出すことができた。
粘菌が好むオートミールに色素を混ぜた餌をスリッポンの上に撒き、植え付けた粘菌が移動しながら靴全体を這い回り、染めていくようにする。

「粘菌って、種類によって広がり方に性格があるんですよ。また湿度や温度、布の状態によっても動き方が違ってくる。白いスリッポンはキャンバス地であるということもあり、その上に粘菌がゆっくりと広がっていく様子は、ある種の絵画に近い表現だと思っています」
※今回はヴァンズのスリッポンを使用していますが、商品の素材や加工によって結果は変化します。

彼女が粘菌で「描いた」のは、偶然と必然のあいだにある生の軌跡だ。科学でも芸術でもない、その中間にある“生物による表現”は、アーティストと自然の共作とも言えるだろう。
「自分の手だけでは作れないものが、生き物と一緒にやることでできるんです。しかも、粘菌が選ぶ道筋は、私が予測していたものとは全然違って。そういう予測不能なところに、すごく面白さを感じるんです」
作品の中で粘菌は移動し、痕跡を残していく。それを乾燥させればプリントとして軌跡が残る。時間とともに変化し、最終的には止まる。だがそこに刻まれる模様は、たしかに「生きた軌跡」である。
「バイオアートって言うと難しそうに聞こえるけど、私にとっては “身近にある自然とどう向き合うか”ということなんです。それが微生物であっても、自分の中の感情であっても同じで。今回の靴は、それをわかりやすく表現できた気がします」

齋藤さんが選んだ白いスリッポン。その表面に刻まれた模様は、粘菌のふるまいであり、彼女自身のまなざしでもある。小さな一歩が、目に見えない世界への扉を静かに開いていた。



